886 :幸せな名無しさん:2014/01/11(土) 23:30:18 ID:24eG7nPc0

簡単に言えば、根源である意識に目覚めること(=気づいている意識に気づくこと)は
自分が世界そのものであることに気づくことです。

選択とか叶えるとか以前に、起こること全てが自分、
自分以外が存在しない
ので完璧でないことがありえない。
人間視点からすると'叶う'という表現になるでしょう。

閃いたんですけど、これってジャイアンwwwwwww
俺のものは俺のもの、お前のものも俺のものw
だから自分の所に来てしまうってことでOK?

'俺'も'お前'もいないんですよ。'誰々のもの'もなく全部自分。
自分というか、全部丸ごと一つで分けられないものというか。

'ない'と思うから、欲しいと思ったり、叶えたり手に入れたりできる。
最初から全てがあれば欲しがるのも、叶えたり手に入れたりすることも出来ない。
自分以外存在しないなら、'ない'と認識できるものは存在しない。

ということは'欲しい'と思うとき、自分と世界(その欲しい対象)は分離してるってこと。
本来自分以外存在しないなら、分離するとかありえないからそれは幻想ってこと。

だから'ない'から'欲しい'とか
'叶える'とか'手に入れる'とかやってるのは全部幻想、錯覚ですよって話。

思考っていうのは'私が○○をする'という形態を見ればわかるけど、'私'と'対象'が存在する。
つまり分離がデフォ。'私'も'○○'も全部自分なのに'する'とかできない。
できないものを'する'とか言ってる虚構。錯覚。

自分が世界そのものなんだから、欲しがってれば'ない世界'で欲しがることになるし
貧乏だと思ってれば貧乏な生活を、満たされてれば満たされた生活を送るでしょう。
'理解したい'とすれば'理解したいと思うような難題'が次々でてくる。
何とかしようと思えば思うほど、何とかしなくちゃいけない世界になる。
思考では望めば望むほど遠ざかるんですよ。

欲しがらなきゃいいんですよ。欲しがるから'ない'を見てるだけ。
だから思考に気づきましょうっていってるんですよ。どういう認識から生まれた思考なのか

'お金が欲しい'という思考に気づいた。
'お金がない'と認識してるから欲しいという思考が出てきたんです。
その認識どおりに世界は展開してるでしょう? 世界(自分)は'叶える力?仕組み?'
そのものですよ。

既にあるとか、全部自分とかどころじゃない。
そこに気づけば今までのように当たり前に欲しがることが出来なくなる。単純でしょ。

これ自分で気づけないと'裕福だと思いたいけど思えません'とかなりますからね。
信じるとかそう思いたいとか、そんな話じゃないんです。
思考は認識から生じてます。認識は自分で気づけないと変わりません。
思考であれこれ考えたって認識は変わりませんよ。

今までのように'ないから欲しいんだ'という思考をそのまま信じ続けるか、
その'欲しい'という思考が'ない世界'を展開させてると気づくか(そういう見方をしてみるか)
ってことですね。

ずっと叶えたいと思っていた願いを、諦めてしまいそうです。
手放すという意味ではなく、本当に諦めてしまいそう。
それでもなお叶えたいのです。

叶えたい'と結果を握り締めてるから遠ざかるんですよ。
↑の通りです。
握り締めてる思考がどんな幻想を生み出してるかに気づけば自然に手が緩みますよ。

あなたは'~が欲しい'って思う事ないのかな? 普通にあると思うんだけど。
そんな時ってじゃあ私と世界が分離してるんだよね?

欲しいと思うことはあるけど不足(錯覚)が前提じゃない。
分離や不足が錯覚だと気づいてるので、
一見分離してるように見えても何も問題もないし渇望できないです。

思うに、積極的に自ら願望を達成することはできるのでしょうかね?
欲しいと思えば、ずっと欲しい世界が展開されるのであれば、
有るから欲しがらないと思えば、ずっと現状変わらない欲しがらない世界が
今のままで十分と思えば、今のままで何も変わらないが十分だと思える世界が
展開されるのでは?
どのようなメンタリティを持てば理想を達成できるのか?

このような思いを持つこと自体がいけないのであれば、
最早理想を諦めるか、今が理想と価値観を変えるしかない。
願望をかなえることはできないのではないか?

見てる方向が違うといいましたが、根幹部分の理解がないせいだと思います。

私は'願望を叶える'話ではなく、
'願望を叶える必要なんてなかった'さらにいうと '叶えることなんて出来なかったんだ'
という話をしています。
 '願望を叶えたい'という思考を持つことがいけないとか言ってません。

全部自分のものなのに'あれが欲しい。手に入れたい'と言ってるから、
'それ自分のものだろ。欲しがる必要なくね?'って言ってるんです。
ここを理解していないと、何を質問してもボタンの掛け違いになってしまいますね。

'気づく'ということを納得したいと強く思っております。
思考に気付くだけではダメだという事でしょうか?

私から見ると気づいた後、
それを分析や判断、認定しようする新たな思考に夢中でしがみついてるように見えます。。

あなたが掴もうとしてるのは空気です。掴むことは不可能です。


一応自己観察では'気づくこと'と'安心、心地よさに浸る'ことの二本立てになっています。
頭でっかちな人は後者をおろそかにしがちですが、そういう人にこそ大事なことです。


あと'内面の投影'というのはあくまで一つの見方にすぎないので、
'自分(内面)'と'画像(外部)'を分ける必要も本当はないです。
全部自分だと捉えてもいいと思います。受け入れやすいほうで構いませんが。

・・・これは例え話ではなくて、実際に私たちは空間だそうですよ。
物理学的にもそういう話になってるんだそうです。
実際、私たちが自分と外の境界だと思ってる皮膚も、ミクロでは穴ぼこだらけで
空気中の色んな成分が出入りしてるでしょうしね。
境界なんて錯覚で、全てが繋がってるんでしょうね。個体性なんてものも錯覚ですね。

これを読んで'やっぱりそうだったんだー'と思って嬉しくなった。
最近なんかそんな感じになってきてたんです。'内も外もないんじゃない?'って
'現実が内面の投影'なら、'内面は現実の投影'じゃん。
そもそも'現実'と'内面'って分けてるのも'思考'じゃん。
そして'現実'や'思考''行動''エゴ''肉体的な自分'すべて、'現象'じゃん。
'内も外'も無いじゃん。 全部フラットじゃん。

今まで内面→現実みたいな感じで捉えていたので、180度視点が変わった感じ

自分と世界の間の→とか=とかないですよね。

そして今'そうか、認識すらないんだ'って思った。 対象となるものが無い。
自分にとっては、これがいわゆる'認識の変更'なのかなと思った。
思ったっていうのも、なんかもう違う感じだけど。

認識変更とかない。
変わるべき'自分の認識'とかなかったんだーと気づくことが自分=世界への認識変更かな?

幻想に惑わされてる人が見ている'いつか辿り着く到達点'があったとして、
それが幻想だと気づいた人は、
到達点どころか道すらない、あるのはここだけだという認識になります。
そういうわけなんで、たった今気づきに寛ぐことですね。


電子とは、わたしたちが測定や観察を行っているときに出現する
特殊なタイプの'規則性'である。

それは実体というよりも、むしろパターンなのだ。
あるいは秩序・・・

物を割ってどんどん小さなかけらにしていく。
ところがよく見ると、そのかけらはそこにない。
ただ、かけらの配置があるだけだ。

ということは、船や帆やみなさんの爪といった'物'はいったい何なのか。

物が、形の形の形の形(電子)だとすると、そして形が秩序であり、
その秩序を決めるのがわたしたち(観察者たち)だとするならば・・・

それらは、わたしたちと宇宙の'関係'において
'わたしたちと宇宙によって作られたもの'としてのみ存在し、出現する。

仏陀はそれを「空」と呼んだことだろう。

アンソニー・アギーレ  ー宇宙論学者(米)